茄子

 先週末、仙台へ旅行に行った。七夕祭りを来週に控えながら、それでもアーケードには人が多いと呟きつつ、楽しい数日を過ごした。

 宿泊した温泉旅館は、夏休みだからと親子連れが多く、合宿か遠征しにきた高校生もいた。大学時代に友人たちと泊まったことがあった。美味しいバイキングに広い湯船もあり、当時を思い出して再び選んだのだった。

 風呂から上がり、湯冷ましにロビー脇のベンチに座って街中で買った『仮面の商人』を読んでいた。眠気をこらえつつページを繰っていると、尿意に襲われ便所に向かう。たもとに文庫本をいれてみたが、なんだかぎこちない。若い作業服の兄さんと入れ違いになり、便所は宿泊客と共用なのかと思い、また休日の夜まで大変だと同情した。加えて、漫画の一場面を思い出したのだった。

 『茄子』という短篇集の中に、同じ女子高生が主人公のものがいくつかある。借金取りに追われて父親はフケて、残された女子高生が気丈に弟、妹を支えている。彼女は元々住んでいたアパートから親戚の家に身を寄せ、以前よりも気苦労無く生活することができる。子供らしさを取り戻していく。

 親戚に引っ越した後に、山中のコテージにアルバイトにいく話がある。コテージには大学生のテニスサークルが泊まりに来、一緒に来た友人と彼らの世話をする。洗ったシーツを干し終えて、彼女らは地べたに座ってこんな言葉を交わしていた。

「世の中にはシーツを洗う人と洗わせる人がいるのだね」

「洗うのもやだけど 人に洗われるのもやーだ」*1

  てっきり女の子らしい羞恥心か、はたまた『スウィングガールズ』のような地口だと思っていたのだけれど、便所で作業着の兄さんとすれ違ったあの時、私も同じ感慨を抱いたのだった。

  父親がいなくなり、彼女は貧しい生活を強いられる。ご飯のおかずもなく、他の学校の栽培実習で育てた茄子で飯を食い、借金取りから情けの金を渡される始末である。夏場、両脇に弟妹を抱えて眠りながら、「ああちくしょう いっそ体でも売ったろかい」*2と思ったりする。彼女は女性的な気丈さをもって問題に立ち向かうから、その苦しみは表に出てこない。学校をサボって煙草を吸っている姿も、清々しさを感じさせる。

 けれど彼女が身につけてきた気丈さは、引っ越しした先ではなんだか浮足立って見える。彼女は若い自分の身の上と、しっかりした(「守銭奴みたいな」*3 )振る舞いを見比べて、不釣り合いに思いながら、次第に折り合いをつけていく。アルバイト先での会話は折り合いをつけた後の話、彼女が女子高生なりの生活をするようになった後の会話だ。

 自分に責任があるのだから頑張らなければならない、なんて自負はくたびれる。仕事をするようになってから、気負って自分を奮い立たせようとし、結局潰れてしまうことを繰り返した。周りの人間がなぜあれほどに飄々として生活できるのかが分からなかった。

 彼女は女子高生らしくない過大な責任を下ろし、シーツを「洗う人」と「洗わせる人」を区分する世界から一旦保留をもらったのだった。他人のために自らが苦しみを背負って立つ、なんて女子高生の彼女らには似合わない。

 私は旅館の一画で、唐突にその場面を思い出したのだった。そして旅館で一時的に気を休めていられる自分の有り様を思いやっては、全くないとは言わずとも、今よりも気苦労のない生活があるだろうと考えていた。

*1:「その15 残暑見舞い」(『新装版 茄子 下』、黒田硫黄、平成21年2月)

*2:「その4 空中菜園」(『新装版 茄子 上』、黒田硫黄、平成21年1月)

*3:「その10 39人(後編)」(同上)